なんか生きてくしかないらしいぜ

けれどもそれでも、業が深くて、 なほもながらふことともなつたら、

新卒一年目、休職からの退職。

 お仕事はしんどい。合わない仕事はもっとしんどい。合わない上司がいるともっともっとしんどい。あーもう嫌だ、だめだつらい。休みたい。しんどくてしんどくてどうしようもなくて、立ち行かなくなったとき、仕事に支障が出始めたとき。

 

 休職制度というものがある。

 

 私は退職する前に休職制度を利用した。現実はつらい。いま、しんどくて休職を考えている人が居るかも知れない。私が述べられるのはあくまで一個人の経験だが、参考になれば良いと思う。自分のための現状の整理をしたいというのもある。自分の休職から退職までの経緯を共有する。

 

 合わない仕事に合わない上司のもと、日々を過ごすことで精一杯だったときに、血縁による裁判沙汰に巻き込まれ、ストレスがキャパオーバーした。仕事中に涙が止まらなくなったのである。気を張っているとどうにか我慢できるが、ふとしたきっかけで涙が溢れてしまう。これは困った。仕事に支障がでる。元々自律神経を壊していて心療内科にかかっていたので、仕事を終えてすぐに駆け込んだ。医師によると「ストレスによる抑うつ反応」とのことだった。ひとまず、ということで一週間の休職命令が出された。会社に持っていけ、とのことで、封をされた診断書原本と、そのコピーを一枚くれた。コピーは裸で渡されたので、内容を確認できた。ちなみに診断書代だけで1000円払った。保険適用なのか病院の設定なのかよく分からないので値段にはばらつきがあるかも知れない。

 翌日に持っていくこともできたが、とにかくしんどくて一度止まると動き出せなくなると感じたのでその足で会社に戻り、残業中の上長を呼んだ(ちなみにボロ泣きしながら会社に行ったのでデスクのあるフロアに入れず、受付のお姉さんに内線で上長を呼び出してもらった。お姉さんは「大丈夫、ほかの人に会いたくないんでしょう」と即座に察してくれた。気遣いがすごい)。電気の消えた会社の隅で上長と二人で話した。とにかく泣いてどうにも言葉が出ないので診断書の封筒を渡した。封筒には心療内科の医院名が書かれている。「これは僕が開けていいのかな」と迷っていたので、封のされていないコピーのほうも渡した。上長はそれを読んだ。きっかけは血縁の裁判沙汰だが、自分と上司の確執にも薄々気がついていたようで、「しんどいよねえ。そりゃしんどいか」と理解してくれた。「ひとまずお休みよ」と言ってくれた。その日は泣きながらの事情説明と簡単な仕事の引継ぎをして帰宅した。

 一週間経つ前、心療内科を受診すると、「もうひと月伸ばそうか」と言われ新しく診断書をコピーをまたもらった。今回は会社に行けず電話で事情を説明した。診断書はもって来られそうなときに持ってきてくれたら、とのことで可能な限り人の居ない時間に、裏口を通って受付のお姉さんと上長としか会わないようにしてもらい診断書を渡した。それからひと月が経つ前、「思い切って2ヶ月休みましょう」とまた診断書をもらった。今度は郵送で送りつけた。

 11月末から一週間、ひと月、2ヶ月、とここまでで3ヶ月以上の休職となった。就業規則には1年目の休職は3ヶ月が限度と書かれていたが、わりと融通が利くらしく休職は何事もなく許可された。3ヶ月が経つ頃、今後について聞かれた。ごたごたは続いていて体調も回復しなかったので、戻れそうにない、退職するつもりでいると正直に告げると退職時期の相談となった。とっくに休職期間の上限は突破しているのでその月で切られるかと思ったが、「いつにする?」と尋ねられた。お願いして、3月いっぱいは籍を置いてくれることとなった(後の記事に書く予定だがこれは傷病手当受給に大いに関連する)。

 そして年度末に退職した。入職8ヶ月目で休職し、そのまま復帰することなくぴったり12ヶ月での退職である。結果5ヶ月ほど休職している。十日残っていた有給は休職の始めに利用したが、それでも規定上の限度は突破している。就業規則は案外融通が利くらしい。

 ちなみに世知辛い話だが、同時期に同じように精神的に参ってしまい休職を余儀なくされた他部署の契約社員さんは、月単位の休職命令が医師より出された時点で退職の話を出された。休職者が出ると仕事が回せないが、人を増やしてしまうと復帰したときに席がないので早期に復帰するか退職するかの二択を提示されたとのこと。復帰ができなかったので退職となった。ちなみに私は正社員雇用だった。この対応の差が契約社員と正社員の差なのか、部署の方針の差なのかは分からない(しかし話をしたのは同じ役員だった)が、そういうこともある。

 

 なんにせよ生きづらい現代である。休職しつつも復帰できるのが一番良いんですけどね。傷病手当やら退職後の各種社会保険の乗り換え、継続or国保の選択や税金などは次回以降で共有していく予定。うへへ保険料と住民税で家計が死ぬぜ。正社員雇用で働けることの尊さよ。いま出来てないけど。

 

記事書こうとしたら下書きがあったので掲載する。

 うつ病になった。

 と言っても診断は不安障害と抑うつ反応。仕事や上司との関係構成で手一杯だった時に、縁を切ったはずの元父親と関わらざるを得ないかつ身辺に影響の出る問題が出て来てしまって、それでキャパオーバーしたらしかった。

 ところで、私は大学生時代にうつ病(未診断)をやらかしている。両親が離婚をして家族で住まいを移ったとき、元父に脅かされない安全な環境に置かれたことで我慢が決壊したのか、どうにも生存していることが悲しくて苦しくて、食事をはじめとするセルフケアができなくなった。頭は元父と暮らしていたときの暴力の記憶を無限再生するので、それを止めるために寝てばかりいた。当時バイトをどうしていたのか、大学の授業はどうしていたのか、いまひとつ記憶にないけれど、とにかく可能な限り床に就いた。自分の意識をシャットダウンした。

 そうして眠って眠って、起き上がれるときに少しだけ起きて、また眠って眠って。今思えばセルフ森田療法のようなことをしていた。ちなみに森田療法のことは後に知った。

 1年と少しかけて、まあ日常生活ができるようになった。2社しか受けなかった適当な就活を終えて、なんとか大学をストレートで卒業した。自分に社会人が出来るなんて毛頭思わなかったけれど、学生身分をなくしてしまった以上は働かねばならない。自分の出来ること以上の仕事に追われて、家庭の事情に襲われて、心療内科医に休職命令を出されたのは社会人になって8ヶ月目のときだった。

 大学生のときのうつ病とは違って、それほど寝込むことはなかった。うつによる過眠はあるけれど、一日起きられないほどではない。眠さと、疲れやすさと、集中力の低下、それから気分の落ち込みはあった。今回は興味のある内容なら読書もできた。処方された薬のおかげなのかもしれないが実感はあまりない。

 随分前に購入して積んだままにしていた、加藤諦三の『心の休ませ方』という本を読んだ。冒頭に「生きることに疲れた」という言葉が出てくる。私はこの言葉を読んでただ泣いた。そう、生きることに疲れたのだ。まだ半周も行っていないマラソンコースの上で、立ち止まってしまった。生きることに疲れたし、長生きしすぎた、とも思った。ちなみにまだ23歳である。

 23歳であるけれど、心の中はもう80を過ぎたおばあさんのように気力がない。それは今回のうつの前からである。上司に「もっと若々しさを出していいんだよ」と言われたこともあった。同じ職場の十個ほど歳上の女性を見て、「若いなあ」と思った。身体の若さではなく心の若さのことである。私は30や40で死にたいと思っているし、今後結婚や家庭を作るつもりもなく、これからの人生はすべて余生である。それならもうなにもしなくて、ここで死んでもいいじゃないかと思ったりする。

 けれど今回も、死ぬことができていない。

 大学時代もそうだった。自分の存在が許せなくて死ななければと思いつつ、とうとう自殺企図すらできなかった。頭の中には母の姿ばかりあった。一緒に暮らす母は、当時19歳の未成年だった私を、当然のように引き受けた。優しく強い人だった。「自分が死んだら、母親は悲しむだろうなあ」と思った。何日考えても考えても死ねないので、私はある決意をした。「あと十年は生きよう」。きょう死ねないのなら、きっと明日も死ねないのだろう。一年後も五年後も、十年後も死ねないだろう。なら、明日死ぬつもりで十年生きるくらいなら、とりあえずあと十年は生きるつもりで生きよう。自分で自分の寿命を延長した。19歳の私は、ひとまず29歳までは生きるつもりで生きていくことにした。そして現在。

 ああ死ねねえなあ。

 そんなことを思いつつ、診療内科に通っている。8ヶ月で休職した仕事は、医師の休職命令が解けないまま、入職からちょうど12ヶ月で退職した。傷病手当は貰っているものの無職である。優しい母は嫌味のひとつも言わず嫌な表情ひとつ見せず、家というものを維持し提供してくれている。優しい目で、好きにしなさい、ゆっくりでいいから、と言う。

 死ねねえなあ。

 どうにも死ねないらしい。なんか生きてくしかないらしい。

生き方のはなしかも知れない

 たぶん、世代の所為もあるんだろうけれど。

 就職活動をするにあたって、よく学校の先生に相談をする。この進路で行きたいんですけれどこれからどうすればいいですかとか、志望動機どうやって書けばいいですかねとか、わたしやっていけますかね不安なんですけどとか、相談というよりは弱音を吐きに行くこともある。学校の先生はいままで何十年と他人の進路について考えてその経過を見てきた人であり、また自身も就職して労働して転職して収入を得てきた経緯があって、その過程で得た知識や経験則なんかを話してくれる。多分もう50代くらいの先生だ。だから考えが古いといえばそうなのかもしれない。就職以外の話でも、言葉の端々にそういう考えが垣間見える。

 オンナノコは転職しても良いのよ、と先生はいう。人それぞれだと思うけどね、だけど私はここに来るまでたくさん転職をして来たしその経験はとても良かったと思ってる。オンナノコはね、出産のときに辞めるかも知れないし、子育ての間は子どもの傍に居たいと思うかも知れないし、旦那さんが転勤するかも知れないし、だから同じ職をずっとするっていうのは難しいかもね。ううんそうじゃなくても、嫌だと思ったら辞めていいのよ。嫌だなと思いながら自分に合わないところで働く意味なんてないからね。それはオトコノコだってそうよ。ああでも、オトコノコは家族のために働かなきゃならないから、あんまり転職転職ってされても困るかもね。そのあたりは男女で違うところだよね。

 私はそれを、いつも話半分に聞く。先生はこういう考えなのかと、思想のひとつとして聞く。窮屈だなあと密かに思いながら。私のまわりにはいろんな人がいて、いろんな働き方があって、それぞれが自由にしていて、そこには男も女も関係ない。ただその人がやりたいように、嫌だと思ったら辞めて、無理だと思ったら辞めて、続けたいと思ったら続けて、ここで働きたいと思えたら働く、そんな人たちの姿がある。きっとそこには私の知らない葛藤や苦しみや喜びや楽しみがあるんだろうけれど、私に見えているものも見えていないものもあるんだろうけれど、とにかくそうやって生活をしている人がいる。

 私はそんな大人たちの生き方を見ているととても安心する。何歳になっても人生を楽しんでいいし、何歳になっても遊びを忘れなくていいし、好きな働き方をすればいいんだと私に教えてくれる。一度入った会社に40年間勤め続ける「必要」はないんだと分からせてくれる。

 男だからこう働く、女だからこう働く、一度入った会社はずっと勤め続けるべき。そういう考えは持ちたくないなあと、私はいつだって私のために私の意思で働いていたいなあと、そう思う。